FAZER LOGIN第27話 生きているよ
「ぼくのお父さんって、生きてる?」
その問いを聞いた瞬間、美月の中で、いくつもの答えが浮かんでは消えた。
まだ話すには早い。
もう少し大きくなってから。
今は知らなくていい。
ママがちゃんと考えるから。
どれも、以前の美月なら口にしていたかもしれない。
陽翔を守るためだと言い聞かせながら。
けれど今、目の前にいる息子は、何も分からない幼児ではない。
自分の過去に興味を持ち、自分と周囲を見比べ、大人たちの言葉を拾い、その意味を考え始めている。
何より陽翔は、死んでいるのかと聞いた。
そこへ嘘を重ねる理由はなかった。
「生きてるよ」
美月は、ゆっくり答えた。
陽翔の指が、布団の端をつまんだまま止まる。
「……生きてるの?」
「うん」
「ほんとに?」
第27話 生きているよ 「ぼくのお父さんって、生きてる?」 その問いを聞いた瞬間、美月の中で、いくつもの答えが浮かんでは消えた。 まだ話すには早い。 もう少し大きくなってから。 今は知らなくていい。 ママがちゃんと考えるから。 どれも、以前の美月なら口にしていたかもしれない。 陽翔を守るためだと言い聞かせながら。 けれど今、目の前にいる息子は、何も分からない幼児ではない。 自分の過去に興味を持ち、自分と周囲を見比べ、大人たちの言葉を拾い、その意味を考え始めている。 何より陽翔は、死んでいるのかと聞いた。 そこへ嘘を重ねる理由はなかった。「生きてるよ」 美月は、ゆっくり答えた。 陽翔の指が、布団の端をつまんだまま止まる。「……生きてるの?」「うん」「ほんとに?」「本当」 美月は息子の手を握ったまま、もう一度はっきり言った。「陽翔のお父さんは、生きてる」 陽翔はしばらく何も言わなかった。 驚いたようにも見えたし、安心したようにも見えた。 でも六歳の顔の中には、どちらとも言い切れないものがいくつも混じっている。「じゃあ」 陽翔は少し考えてから言った。「どこにいるの?」 美月の胸がきゅっと縮む。「それは……」「遠いところ?」「遠くはないよ」 言ってから、自分で苦笑しそうになった。 物理的には。 少なくとも今は。 けれど、六年間という距離はどう説明すればいいのだろう。「日本にいる?」「いる」「同じ町?」「それは違う」「会ったことある?」 美月の呼吸が一瞬止まった。
第26話 僕のお父さんって、生きてる? 陽翔が父親の話をしたのは、何か特別な出来事があった日ではなかった。 むしろ、美月にとっては拍子抜けするほど普通の木曜日だった。 朝はいつものように目覚ましを二度止め、陽翔に「ママ、あと十分って言ったのに十五分寝てた」と指摘され、慌てて朝食を並べた。新しく買った上履きには陽翔が自分で名前を書き、最後の「翔」だけ少し右上がりになっていた。「これ、読める?」「読めるよ」「変じゃない?」「自分で書いたんだから十分上手」「ママより?」「そこは比べなくていい」「ママの字、急いでると怖いよね」「朝から喧嘩売らないで」 そんなやり取りをして、陽翔を送り出した。 仕事も普段どおりだった。 午前中は三人の子供のリハビリを担当し、昼には冷めた弁当を食べ、午後は記録入力に追われた。怜司からも連絡はなかった。 七年前の調査については、いったん新しい証言を待つことになっている。 だから美月も、意識して考えないようにしていた。 考えたところで、今すぐ答えが出るものではない。 誰が二人を引き離したのか。 どこまで意図的だったのか。 それを知ることは必要だ。 けれど、その答えだけを追い続けていたら、今の生活まで七年前に飲み込まれてしまう。 美月には仕事があり、陽翔がいる。 洗濯物もたまるし、冷蔵庫の牛乳は切れる。 人生は、大きな秘密があっても普通に夕食を要求してくる。 ◇「今日ね、翔太くんのパパ来てた」 夕食の途中、陽翔が唐突に言った。 美月は味噌汁をよそっていた手を止めた。「学校に?」「うん。忘れ物持ってきたんだって」「何を忘れたの?」「図工で使う箱。先生に『また忘れたの?』って言われてた」「陽翔も笑えないでしょう。この前宿題
第25話 誰かが、私たちを別れさせた 翌日の午後、怜司は七年前に神代家秘書室へ勤務していた女性と会っていた。 場所は本社ではない。 相手が神代家との関係を周囲に知られたくないと希望したため、都心から少し離れたホテルのラウンジを使った。怜司も秘書を同席させず、調査担当者だけを一人連れている。 向かいに座る女性は六十代半ばだった。 当時は沙耶の個人秘書を兼ね、神代家の私的な予定や連絡を扱う部署にいたという。「突然お呼び立てして申し訳ありません」 怜司が頭を下げると、女性は緊張した面持ちで首を振った。「いえ。ただ、七年も前のことですから、どこまで正確にお答えできるかは……」「覚えていないことは、覚えていないと言ってください。推測で埋めてもらう必要はありません」「分かりました」 怜司はテーブルの上へ一枚の資料を置いた。 当時の携帯電話契約に関する記録だった。「事故で俺の端末が破損したあと、着信制限と一部転送設定が行われています。申請者として、あなたの名前が残っていました」 女性は眼鏡を掛け直し、資料へ目を落とした。 しばらく見つめてから、ゆっくり頷く。「私の字ですね」「覚えていますか」「端末の手配をしたこと自体は覚えています。怜司様は事故直後、意識が戻っても体調が安定しておられませんでしたから、ご家族や病院と相談して、外部からの連絡を一度整理する必要があると……」「外部からの連絡を整理する、というのは?」「仕事上の電話、取材、親族からの連絡、それから……私的な連絡です」 怜司は表情を変えなかった。「特定の相手からの電話を止めるよう指示された記憶はありますか」 女性はすぐには答えなかった。 その沈黙だけで、怜司の胸の奥が冷えていく。「あります」 ようやく女性が言った。
第24話 その手紙を、俺は読んでいない 七年前の郵便物について調べ始めてから三日後、怜司のもとへ最初の報告が届いた。 朝八時半。 KAMISHIRO MEDICAL本社の執務室にはまだ人の出入りが少なく、窓の向こうでは曇った空の下を車の列が流れている。 怜司はコーヒーへ手をつける前に、調査担当者から送られてきた資料を開いた。 七年前。 交通事故で入院していた期間。 当時、怜司が住んでいたマンションの郵便物は、一定期間、本人ではなく神代家側の管理担当者が回収していた。 そこまでは予想していた。 事故直後は意識がなく、その後もしばらく入院が続いた。公共料金、クレジットカード、会社関連の書類、契約関係など、放置できない郵便物があったためだ。 問題は、その先だった。『回収担当者が郵便物を神代家資産管理室へ運搬。その後、業務・契約・金融関係と私信に分類し、必要書類のみ病院または秘書経由で本人へ届けていたとみられます』 怜司は文章を読み返した。「私信に分類……」 声に出す。 次の資料へ進む。 当時の簡易業務マニュアルの写し。 そこには、入院中の怜司宛て郵便物について、『本人への負担を避けるため、至急性・重要性を家族側担当者が判断する』 と記されていた。 怜司の眉が寄る。 本人への負担。 随分と便利な言葉だ。 見せるかどうかを、本人ではない人間が決められる。 ページをめくる。 当時の郵便物管理担当者は二名。 一人はすでに退職。 もう一人は現在も神代家の関連会社に籍がある。 調査担当者からの補足が続く。『当時の回収担当者の一人に、本人の同意を得たうえで聞き取りを実施しました。個々の郵便物について記憶はないとのことですが、「女性名義の私信」については、資産管理室へ渡した後、神代家秘書室側で確認し
第23話 七年前に送った手紙 日曜日の朝、美月は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っぱり出した。 衣替えをするつもりだった。 それだけだったはずなのに、冬物のニットを探している途中で、奥に押し込んだまま何年も触れていない箱が目に入った。 ふたの端が少し潰れている。 大学時代のノートや昔の写真、使わなくなった小物をまとめて入れた箱だった。「ママ、何してるの?」 背後から陽翔が覗き込む。「冬の服出してたら、昔のもの見つけたの」「宝箱?」「そんな立派なものじゃないよ」「開けていい?」「待って。変なもの入ってるかもしれないから」「変なものって?」「大人になると、昔の自分を見るのがちょっと恥ずかしくなるものがあるの」「写真?」「写真も」「見たい」「見せません」「何で?」「ママにも人権があります」「ぼくもあるよ」「知ってます」 陽翔は納得していない顔をしたが、今日は友達と遊ぶ約束がある。 玄関からインターホンが鳴ると、興味はあっさりそちらへ移った。「来た!」「上着持って。あと四時半には帰ってくるのよ」「分かってる!」「お菓子食べすぎない」「分かってる!」「道路飛び出さない!」「それも分かってる!」 返事だけは勢いがいい。 美月は玄関まで送り、友人の母親へ頭を下げた。「いつもすみません」「全然。うちの子が陽翔くん来るの楽しみにしてるから」「四時半には迎えに行きます」「ゆっくりでいいよ」「ありがとうございます」 陽翔が振り返る。「ママ、宝箱勝手に全部見ないでね」「ママの箱なんだけど」「面白いのあったら残しておいて」
第22話 あなたは、本当に知らなかったんだね 公園で三人そろって走った翌日、美月はひどい筋肉痛になった。 朝、目覚ましを止めようと布団から起き上がった瞬間、太腿の裏に鈍い痛みが走る。「……痛っ」 思わず声が漏れた。 隣の部屋から、すぐに陽翔が顔を出す。「ママ、どうしたの?」「何でもない。ちょっと足が」「昨日走ったから?」「……たぶん」 陽翔の顔が、みるみる楽しそうになる。「ママ、弱い」「誰のせいで走ったと思ってるの」「でもママ、本気だったじゃん」「『負けるの怖いんでしょ』なんて言われたら、本気にもなるでしょう」「大人げない」「その言葉、誰から覚えたんだっけ?」「ママ」「教えるんじゃなかった」 陽翔は笑いながら、自分の足を何度か屈伸させた。「ぼく全然痛くないよ」「六歳と二十九歳を比べないで」「怜司さんも痛いかな」「さあ。あの人は一応運動してそうだし」「聞いてみようよ」「朝からそんなことで連絡しないの」「何で?」「大人には仕事があるからです」「ママも仕事あるじゃん」「だから今から準備するの」 そう言いながら立ち上がろうとして、また脚が痛んだ。 陽翔が吹き出す。「やっぱり痛いんじゃん」「笑わないで」 朝からこんな調子では、一日が長そうだった。 ◇ ところが、出勤して一時間ほどすると、今度はスマートフォンが震えた。 休憩時間に画面を見る。 怜司からだった。『昨日、走ったせいで少し脚が痛い』 美月は思わず笑った。 陽翔の言葉を思い出す。『私も』







